藤沢市御幣山遺跡 第9次調査

御幣山(おんべやま)の地名由来

御幣山地名の由来は、江戸時代後期の文献に記されています。その記録によれば、道教律師が感応院を開く前後の頃(1213 ~ 1218 年)、御幣山台地の北西端に位置する感応院境内に祀られている三島明神から白い気体が立ちのぼり、白い幣となって東南方向にある山の頂上まで飛び去ったことが地名の由来とのことです。なお、江戸時代の終わり頃には「おんべいやま」あるいは「おんぺいやま」と言われていたようです。最近では、「おんべえやま」・「おんべやま」と呼称されることが多いようです。

Facility

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旧石器時代約30000~20000年前

御幣山北東側の第2・5次調査では、関東ローム層(赤土)の中から石器集中ブロックや、蒸し焼き料理などに使われた礫群が発見されました。今回の調査でも、これまでに石器集中ブロック2カ所と礫群1カ所、石器類 40 点以上が発見されました。藤沢市内からはこれまでに 50 カ所以上の旧石器時代遺跡が確認されており、御幣山遺跡は市域の南東端に位置する遺跡です。

  • 旧石器時代
  • 旧石器時代
  • 旧石器時代
  • 旧石器時代
  • 旧石器時代
  • 旧石器時代

Ⅰ区では2個所の石器集中ブロックの調査を行いました。石器は関東ローム層の中から出土し、これまでに尖頭器やナイフ型石器のほか、多量の剥片が出土しています。剥片は、石器製作時の石屑や石器材料です。尖頭器とナイフ型石器は、剥片を素材として作成された狩猟具と考えられる石器です。

縄文時代草創期~中期約10000~5000年前

縄文時代の遺構・遺物は、御幣山東側と北側の第1・2次調査地点から発見されています。表裏縄文土器と呼ばれる内面にも文様のある特徴的なもので、今回の第9次調査でも、表裏縄文土器の小破片約 90 点が発見され、そのほか石器類約 20 点、礫約 900 点が出土し、性格不明の落ち込み 73 基(小さな柱穴のようなもの 71 基、やや大きな土坑状のもの2基)が発見されました。

  • 縄文時代草創期
  • 縄文時代草創期
  • 縄文時代草創期
  • 縄文時代草創期
  • 縄文時代草創期
  • 縄文時代草創期

今回の調査では、北側の第2次調査と同じく草創期後半の表裏縄文土器が発見されました。また、土器のほかに石鏃、打製石斧、敲石などの石器とともに、900点を超す大量の礫が出土しました。礫は焼けて赤化し、粉砕したものが主体となります。

弥生時代後期~古墳時代前期約1800~1600年前

弥生時代後期(約 1800 年前)~古墳時代前期(約 1600 年前)になると、竪穴住居址や掘立柱建物址、方形周溝墓などが第1・3~8次調査で発見されました。この時代の御幣山には、東側と西側にそれぞれ集落・墓域が形成されていたらしいことが分かります。第6次調査では竪穴住居址から銅鏃1点が発見されています。

鎌倉~室町時代西暦 1180 年~ 1590 年(839~429年前)

戦国時代になると村岡郷にも小田原北条氏により城郭が築かれます。小田原北条氏の東相模の拠点は玉縄城 ( 鎌倉市城廻一帯 ) ですが、西側の備えとして御幣山には「御幣山砦」が築かれます。御幣山砦は記録によると、永禄 12 年 (1569) の武田信玄による小田原攻めの際と、天正 18 年 (1590) の豊臣秀吉による小田原攻めの際に2回落城しています。城主である大谷公嘉 (おおたに きんよし) は永禄 12年の時は小田原城に籠城しており、御幣山砦に在城していませんでした。そして天正 18 年、大谷公嘉は御幣山砦に籠城することなく、上野国西牧城 (群馬県下仁田町) の守備を任され、そこで討ち死にします。御幣山砦は小田原落城後、使用されることなく廃城したと考えられています。
 今回の調査では、土坑1基、溝状遺構4条、陶磁器小破片数点が発見されました。現在調査中のⅡ区4号溝状遺構からは、馬と考えられる歯の破片と陶器破片が出土しました。第6~7次調査では、4号溝状遺構とつながる可能性のある溝状遺構が発見されており、今回の調査によってこの溝状遺構の長さは約 280m以上あったらしいことが分かりました。また、御幣山東側の第4・7次調査では、室町~戦国時代頃の掘立柱建物址が発見されています。

  • 鎌倉~室町時代
  • 鎌倉~室町時代
  • 鎌倉~室町時代

1区からは、調査区北側の現行道路に並行する4条の溝状遺構が発見されました。3条(1〜3号)は重複して造り替えられた状態が認められました。Ⅱ区からも、4号溝状遺構の続きと路面の一部のような硬化面が発見されており、現在調査中です。なお、第6〜8次調査では、1〜3号または4号溝状遺構に続く遺構が発見されています。

江戸時代西暦 1590 年~ 1867 年(429~152年前)

 江戸時代初期に東海道が整備され、江の島道や大山道が交わる藤沢宿は大いに繁栄します。その頃、御幣山は幕府直轄の「御林 (おはやし)」となったことが記録に書かれていますが、詳細はわかっていません。
 第4次・6次調査では、江戸時代の掘立柱建物址や溝状遺構が発見されています。

<御幣山地名の由来が記された文献>

①小川泰二著 文政 13 年 (1830)『藤沢名所図会-我がすむ里-』
「御幣山(おんべいやま)(中略)この山を御幣と呼び来りし事ハ、むかし建保年間道教律師三嶌明神へ参籠の時、夜半の此不思議の白気祠のうちより立登り、空中にて白き幣と化し巽位をさして飛去り、此山にとゞまる、この奇瑞より御幣山と呼なせり(以下省略)」(37 頁 )
②平野道治編著 天保 13 年 (1843)『雞肋温故』
「御幣山(ヲンぺイヤマ)(中略)昔、建保年間道教律師、滝川の辺に止宿して夜半に三島明神の社の辺より白気立登り、辰巳の方に靡き空中にて白き幣と化して去りぬ、考ふる、比山の上ニて白幣と化したる故にかく称するもの歟(以下省略)」(76 頁 )
③日本地名研究所編 昭和 62 年 (1987)「大鋸の地形と地名」『藤沢の地名』藤沢市自治文化部市民活動課
「御幣山は小字御幣にある小高い山で、建保年間 (1213 ~ 19) に道教律師が御幣山の山麓の滝川のあたりに泊まったおり、夜半に三島明神の社のあたりから白気が立ち登り、白い御幣と化して飛び去ってこの山にとどまったところからこの地名がついたといわれています。」(128 頁 )
註・①、②:藤沢市文書館編 昭和 51 年 (1976)『藤沢市史料集 ( 二 )』から引用。

  • ・建保年間:建保元年 (1213) ~建保7年 (1219)。順徳天皇・後鳥羽上皇、将軍源実朝・執権北条義時の時代。
  • ・道教律師:建保6年 (1218) に源実朝のもとで感応院を開いた僧。
  • ・三嶌明神、三島明神:建久4年(1193)に源頼朝が伊豆国三島大社を勧進。現在は感応院の境内に祀られている。